帰りながら見にくい空を見上げて、考え事をしている。あたしの日常を非日常にしてくれる人。あたしはあの人の名前を知らない、何処に住んでいるのか、如何して兄妹と仲直りしたのにあの公園に来ているのか、何も聞かないのか。そして、あの人もあたしのことを何も知らない。知っているのはあたしが家に帰りたくないということと、空を見上げるのが好きなこと。世界には62億人もの人がこの地球上には住んでいるんだよ。日本には1億と3千万いるんだよ。その中で、こんなにあたしを救ってくれる人を見つけられたことは奇跡かもしれない。あたしの奇跡。何も知らないし判らないあの人だけど、きっと日常を非日常に変えてくれるのなら、そしていつかその非日常すら日常と化してくれるなら別に何も知らなくたっていい。名前は確かに呼ぶときに不便かもしれないけれど、それだけだ。それ以外にはなにも意味は持たない。何もいらない。 家について鍵をはめ込む。ガチャガチャという音が鳴ってから扉を開けると、其処に立っていたのはその皺まみれで化粧が取れたぶっさいくな顔をさらにぶっさいくに皺を寄せたお母さんだった。ああ、なんだか嫌な予感。さっきまでまた明日逢えると思っていたけれど、もう明日逢えるなんて気はしない。あたしは自分でも気付かぬうちに、この人にとっての「間違い」を犯してしまったのだ。 「遅かったじゃない。何してたの?」 「…勉強してたの、塾で」 「なら塾に電話したらいつもと同じように帰りましたと言われたのは如何して?」 「……」 「なんとか言いなさい」 なんとか言いなさい?貴方に何か言ってあたしの言葉がまともに通じたことがありますか?…言おうとしたけれど喉の奥に押し込める。そう、この人にあたしの言葉は通じない。要するにその言葉すら通じない。通じないのなら、話す意味なんて持たない。あたしは何やらまだ文句を言っているこの人を無視して自分の部屋へと向かう。煩い煩い煩い煩い煩い。黙るという機能はこの人には備わっていないのか。布団に包まり耳を押さえる、もうあの人の声は聴こえないのに幻聴がまだ耳に残っている。「明日は外には出さないからね」中に閉じこもって堪るもんか! 日曜日、学校も塾もなくて、あたしが一番勉強しなければならない日。普通なら日曜日は学生にとっての休息のはずである。だけどあたしにとっては、日曜なんかよりも平日の方が勉強する時間は少ない。なぜなら、学校、または塾への登下校や体育の時間など頭を休めるための時間は少なからず貰えるからだ。だけど日曜は如何だ?丸一日家にいるしかない日曜日、当然あたしの生活では部屋に閉じこもって勉強するしかない日曜である。部屋を出ることが許されているのは食事とお風呂とトイレのみ。これじゃあまるで牢獄だ。そう、あたしは今までずっとそんな牢獄生活を送ってきたのだ。一体、世界ではどれだけの人があたしと似たような生活を送っているのだろう!いったいどれほどの人があたしのようなロボットに育て上げられているのだろう!あたしは、こんな場所抜け出したいよ。…ううん、いつだって抜け出せるはずなんだ。やろうと思えば家出することだって、真正面から縁を切ってやることだって、いっそのこと自ら命を絶つことすらあたしには可能なんだ。そう、だからあたしは今日この日この場所から、抜け出してやる。この牢獄のような日常から、夜の公園で空を見上げる非日常へと! チャンスは一度きり。あたしはいつもどおりに朝から勉強に励む。朝ごはんを食べる。また勉強する。トイレへ行く。戻ってきて勉強を再会。お昼ごはんを食べる。部屋に戻って机に齧りつく。そして、お母さんが夕飯の買い物へ出かける、この時。大体かかる時間は往復時間も合わせて1時間。充分だ。夕方から公園へ向かったって、あたしが望むあの人はいないから誰かと話す必要はない。あたしは、ただ、あの場所へ向かえばいい。そうすればあたしは、あたしの心は一日の癒しを得るだろう。水を得た魚のように。さあ、もうすぐ時計が0時に変わる。其処からもう、ミッションはスタートする。 |