隣の病室に新しく入った患者さんがお国さまだと知ったのは看護師さんたちの世間話だった。お国さま、といういくらか他人行儀な呼び方は祖国ではないことを示していて、祖国ですらも直に見たことがないわたしは、好奇心に駆られて隣の病室を覗きに行った。 看護師さんたちが話していたことによると、ぎっくり腰になった上に階段から落ちて骨折したらしい。お国さまでも骨折とかするんだと考えながらそっとドアに隙間を作る。綺麗な長い黒髪を垂らした、男とも女ともわからない綺麗な顔立ちの人間が、そこにいた。ぎっくり腰という単語から勝手に老人を想像していた私はあまりの若さに驚いて目を見開いて固まってしまう。ドアが開いていることに気付いたらしいお国さまはこちらに視線を向けると、怪訝そうに眉を潜めた。 「お前、誰あるか」 これがわたしとお国さま―――王さんとのファーストコンタクトだった。 消毒液を浴びるくらい
カツン、と松葉杖が音を立てたのを聞いてわたしはドアの方へと視線を向けた。それから数秒もしないうちにドアは開かれ、向こうから黒い髪を揺らした王さんが現れる。こんにちは、と声をかけると何やら気まずそうに口ごもりながらニイハオと返す。いつもは物事をはっきりと言う彼が珍しい。 「退院、おめでとうございます」 わたしの言葉を聞くと、王さんは一瞬きょとんという顔をして、それから溜息と共になんだ知っていたあるかと吐き出した。相変わらずわたしの情報源は看護師さんたちの噂話だった。だって入院中って暇なんだもの。些細なことだけど、色んな人の話が聞けるのは楽しい。例えば、302号室の男の子がやんちゃで世話が大変だとか。最近505号室の患者さんがセクハラが多くて困るだとか。210号室の患者さんが、例のお国さまに懐いてる、だとか。 「そんなに強く握っちゃ、パンダが可哀想あるよ」 王さんは苦笑いをしながらベッドの近くに腰をかけると、知らず知らずのうちに握りしめていたらしいパンダのぬいぐるみをわたしから取り上げた。これは王さんがわたしにくれたものだ。「幸せになれるパンダあるよ!」「インチキくさいですね」「アイヤー!失礼なやつある」「でも、貰っておきます」その時の王さんの拗ねた表情は、まだ記憶に新しい。男のくせにコロコロと表情が変わって、いちいち可愛らしいのだ。 「寂しく、なりますね」 懐いているという一言で終わらすにはあまりに足りなすぎる感情の行き場に迷ったまま、今度はパンダの代わりにシーツを握った。ぽんぽんと埃を取るようにパンダを叩いていた王さんが、ふとその手を止める。王さんを見上げると、傷一つない顔が目に入った。当初頭に巻かれていた包帯も、腕にあった打撲の痕も、元から何もなかったんじゃないかと思うぐらい綺麗になくなっていて、それがまた彼がいなくなることを示す。彼の中に残った怪我は、もう左足の骨折ぐらいしかなかった。 「ねえ、王さん」 「何あるか」 「わたし、王さんのことが、すきです」 あまりに唐突で、王さんは驚いたように目を見開いて、少し目線を泳がせながら「そーあるか」とそっぽを向いた。わたしよりずっと長く生きてるのに、何処かうぶな反応が可愛らしくて笑ってしまう。すると王さんは「笑うなある」と不機嫌そうに言った。 「すみません」 「まだ笑ってるあるか」 「すみません、」 そう言いながら顔を俯けると、ぽたぽたと、手のひらの上に透明な水が落ち始めた。それらは頬を伝い、口の中へと侵入し塩辛い味を広げる。わたしの様子に気付いた王さんは「わ、っ」と焦ったようにわたしの頬に手を伸ばした。細く骨ばった、傷一つない綺麗な指が頬の涙をすくう。 「王さん、おねがいが、あるんです」 「……何あるか」 「わたし、わたしのこと、忘れないでください。この国で、ちょっと入院して、その時に少しだけ仲良くなった人間のことを、覚えていてください」 本当は、退院した後も王さんに会いたい。手紙でも電話でもいいから、繋がりがほしい。そんなことを考えていたのだけれど、繋がれば繋がるほど欲張りになる気がして、そうなるとどんどん深みにはまってしまいそうで怖かった。けれど、それ以上に、やっぱり忘れられてしまうのが、悲しい。何百年も何千年も生きている彼にとっては、わたしなんてほんの短い間、ほんの一瞬だけ、一緒にすごしたちっぽけな人間だったという事実が虚しい。顔を上げると、王さんの困ったような笑みが目に入り、わたしは唇を噛んでもう一度俯いた。 「それは…無理あるなあ……」 独り言のように呟いた彼の言葉が、病院の静かな喧騒の中へと消えていった。病院の中と言うのは、意外と騒がしい。あちこちで看護師さんたちの歩き回る音が聞こえて、いつ、ドアの前を通りかかるかもわからない。もし通ったら、多分今度の噂のネタはわたしになるだろうなあ、なんて関係ないことを考えて、王さんの拒否の言葉から必死に目を逸らした。 「だけど、おめーには憶えていてほしいあるよ」 「え?」 けれども王さんが続けた言葉に、わたしは驚いて顔をあげる。王さんはあいかわらず困ったように笑いながら、我からのお願いある、と続けた。 「この病院で、たまたま隣の病室に入院したやつと仲良くなったこと。好きになったこと。忘れないでいてほしいある」 「……我侭ですね」 「そうあるよ。我はお前以上にずうっと我侭ある」 わたしはそんな王さんの言い草に戸惑いながら、先ほど王さんがやったように困ったように笑った。忘れられてしまうのは悲しくて虚しい。わたしにそんな気持ちにさせるくせに、自分のことは忘れるなだなんて。けれどそんな我侭を受け入れてしまおうと思ってしまうぐらい愛しかった。王さんがいつか忘れてしまう約束でも、わたしが憶えていれば繋がっていられる。 「それから、我もお前のこと好きだったこと」 シャッと聞きなれたカーテンレールの音が聞こえて、世界が遮断されたと思うと熱っぽい唇がわたしのそれを塞いだ。いつかまた、逢える日が来るかもしれない。その時、わたしが声をかけたって、王さんは初めて逢った時のように「誰あるか」とか言ってしまうかもしれない。それにわたしは傷ついて、寂しくて虚しい思いをするかもしれないけれど。それでもわたしは憶えておこう。いつか退院して、他の誰かに恋をして、結婚して、子供を産んで、死んでしまうまで。 ちっぽけな人間が、お国さまと恋をしたこと。 |