指の腹がうっすらとした瞼の上を滑って、それが少しだけこしょばゆく思わず眉を寄せる。そのたびに彼は動かないで、といつもよりも鋭く告げた。やけに真剣さを帯びたその声に心臓を大きく高鳴らせながら、私は息を止める。けれどすぐに苦しくなって、静かにすうっと空気を吸い取った。視界が遮られているせいで、敏感になった耳が自分の呼吸音を拾う。フェリシアーノの息遣いまでも近くに感じて、どっくんどっくん動く心臓を抑えようと私はもう一度息を止めた。当たり前だけどそんなことで鼓動が収まるわけでもなく、苦しくなって口を開ける。先ほどから一体何回それを繰り返しているのだろう。

ちゃん。目、開けて」

言われるがままに瞼を開けると、化粧台の鏡の向こうでフェリシアーノが笑っていて、その顔の下で目元をしっかり色づけられた私がいる。おお、と感動する暇もなくフェリシアーノは私と鏡を遮って、色づいた目元を筆でなぞった。

ちゃんはいつでも可愛いけど、今からもっと可愛くなるから」

楽しみにしててね。フェリシアーノは自信満々に軽やかな音を紡いで笑った。けれど私にはそんなことは、どうでもよくて。それよりも間近な距離で彼が喋っていることに戸惑い、乱れた息を必死に止めて、平静を装いながらゆっくりと首を縦に振った。

フェリシアーノは手際がいい。鏡の向こうでどんどんと別人になっていく自分を他人事のように見つめながら、呼吸の仕方なんて考えている不器用な私よりもずっと。彼の手にかかれば道具たちは皆、肌の上を踊るように滑るのだ。その仕草は決して乱暴ではないし、なのに抜かりがない。そういえば彼は絵を描くのが得意だったことを思い出す。ならば、これも同じこと。

「フェリ、ありがと」

最後に紅を引いてから、出来あがった別人の自分を物珍しそうに眺めて私は傍らの芸術家に声をかけた。「ヴェー、これぐらいお安い御用だよ」とへらへらと頬を緩ませる姿に先ほどの真剣さの欠片も感じない。それに少しだけほっとしつつも、正常な息の仕方は未だに思い出せないままだった。

「本当はこんな可愛いちゃん、他の人には見せたくないんだけどなぁ」
「あーハイハイ。だからってこの部屋に閉じ込めたりしないでよ?」
ちゃんが困るようなことはしないよ!」

軽口を適当にあしらいながら、ドレスの上にコートを羽織って足をドアの方へと向けた。胸の内を整えるように息を吐き出し、肩を下ろす。じゃあ行ってくるねと声をかけながら私はドアノブに手をかけたが、それは動かす直前に一回り大きな掌に包まれて阻止された。「フェリシアーノ、どうし」たのと、振り返り見上げたら、声は彼の唇の中に吸い取られ溶け込んでしまった。触れるだけでは飽き足らず、擦りつけるかのように唇を押しつけられて、やっと落ち着いた心臓が再び暴れだすのを感じる。離れたところを狙って文句を言おうと顔を上げると、私の口紅がフェリシアーノの唇に移っているのが視界に入った。やけに扇情的なその姿に一瞬でも見惚れると、フェリシアーノは簡単に唇を奪うのだ。

「…ッ私の困るようなことは、しないんじゃなかったの」
「ヴェ?」
「口紅、取れちゃったじゃない」

その口紅を塗ったのだってフェリだけど。恨めしげに、けれど出来るだけ意識はしないように睨みつける。フェリシアーノはそれを聞くと子供のように口をとがらせて、ちゃんがいけないんだよと責任転嫁を始める。意味がわからないと首を傾げてみても、フェリシアーノは答えない。かわりに、絶対化粧直ししちゃ駄目だからねと、さらに困るようなことを付け足した。

「だって一番可愛いちゃん見るのは、俺だけでいいもん」

周りが目に映すのは未完成の私だけでありますように、と。フェリシアーノは、先ほど私を色づけたその指で、私の色を剥ぎとった。

(独裁者のキャンバス)(2012/05/23)