目の前で男女は唇を熱心に合わせているのを見て、頭の中を埋め尽くしていたお酒が一気に引いて、さらりと冷たい空気が私の頬を撫でた。私が動けないまま茫然と見ていると、その視線に気付いたらしい男が顔を上げる。薄暗い視界でも、電灯に照らされたド派手なピンクのシャツに白スーツを見れば誰だかわかるわけで。目が合ったことに動揺して一瞬だけたじろぐと、男は不敵に笑ってみせる。そしてようやく密着していた体が離れて、彼は女に別れを告げた。「同居人も帰ってきたんで、お別れです。おやすみなさい、オネーサン」 「あのさあ、何回も言ってるでしょ。ああいうことするなら家の近くはやめてって」 「別にいいじゃないですか、家に連れ込んでるわけじゃねえんだし」 「そういう問題じゃありません!」 一体何度めだと思っているんだ、この男は。彼に誑かされた女の子と遭遇するたびに、睨まれるのは私の方なのだ。今日だって別れ際に先ほどの女の子に嫉妬を含んだ目で見られて、気が滅入ってしまいそうだった。精神的にも肉体的にも疲れた重い体を引きずって、ようやくリビングにたどり着くと、真っ先にソファーに沈み込む。そのまま仰向けに転がるようにすると、ひょいと顔をのぞかせて「疲れてんすか、マスター」と声をかけてきた。 「誰のせいだと思ってるのよ、誰の」 「なんだ、ヤキモチっすか。心配しなくても俺が一番好きなのはマスターですから」 「ち、が、う!」 噛みつくように体を起こして彼に告げると、一瞬だけ驚いたようにデリックは身を引いた。そのとき動いた空気が、私に甘い香水の匂いを伝える。その香りに顔を歪めると、デリックはどうかしましたかと無邪気に首を傾げる。ああそうよね、自分の匂いなんてわからないわよね。あんな風に見せつけられて、匂いまで付けて帰ってきて、それなのに私のことが一番などとほざくこの男が憎たらしくってたまらない。それなのに、ちっとも私の気持ちなんて知らないデリックは、遠慮も知らずに私の隣に座ると、大きな手のひらで私の手をぎゅっとつかんだ。 「ところでマスター、夕飯は誰と行ってきたんスか?」 「…静雄とだけど」 「だから煙草臭いんですか」 「え、匂う?」 「ちょっとだけ」 そう言ってデリックはその香りを確かめるかのように私の手のひらに鼻を寄せる。犬みたいだなあなんて思いながら眺めていると、デリックは徐々に身を乗り出して体を私に近づけてくる。すんすんと鼻を鳴らしているあたりは相変わらず犬のようだが、鋭い眼光がそれを否定した。逃げようにも手のひらは掴まれたまま、もう片方の手もいつのまにかがっちりと肩を掴んでいて動けない。そのまま耳に唇を近づけると、かぶりと甘く噛みついた。 「俺はマスターだけなんですけどね」 息を吹きかけるように囁かれて、びりっと体に電流が走る。けれども、言われた言葉を理解すると私は密着している体を押し返した。あまりに体があっさりと離れてしまったので、思わず顔をあげると、デリックは私を見下ろしながら余裕そうに笑っていた。「うそつき」胸辺りに置いたままの手をスーツを巻き込みながら握りしめて睨んでやると、それでもデリックは笑ったまま「こんなことに動揺するとか、マスター可愛いっすね」なんて言ってる。 「ッシャワー浴びてくる」 そのまま部屋を飛び出し、お風呂場へ飛び込むと思い切り扉を閉めた。ずるずると扉を背にして座り込み、熱いままの耳を抑える。ふわりと、彼から移ったらしい香水の匂いが漂う。少し強すぎるぐらいのその匂いは私には似合わなかった。 電 音 泣 て る
子 は い い 華奢な後姿を見送ってからハァと盛大に溜息をついて、目元を手のひらで顔を覆い、先ほどマスターがやったようにソファーの上で仰向けに寝転がる。静雄の煙草の匂いと先ほどまで一緒だった女の香水と、うっすらと彼女の残り香を感じて再び息を吐いた。嘘じゃねえのになぁ。信用してもらえないのも、自業自得だと言う事実も、わかってはいるけれど。他の女と同じように上手く触れることができないとか、少しでも気にかけてほしいからってこんなことを繰り返してるとか、そんな馬鹿で餓鬼な俺を知ったら彼女は一体どんな顔をするだろう。マスターだけなんですけどね、ほんと。 「、」 一番どころか、唯一といってもいいぐらい。遠くから聞こえるシャワーの音に耳を傾けながら目を閉じて、そっと名前を呟くとそれは何処までも甘く部屋の中へと消えていった。 (2011/10/26) |