「あのさ、
「んー?」
「結婚しよう」

まるで散歩にでも誘うかのような軽い口調で臨也くんが言うものだから、わたしは一瞬頷きかけた顔をばっと上げて、「え」と酷く気が抜けるような声を漏らした。それと同時に、わたしの手の中からゆるりと白のナイトが音を立てて、落ちる。盤の上に落ちたナイトは、少しよろけるように揺れたが、次第に揺れは小さくなり、マス目の上で綺麗に直立をした。

「はい、俺の番ね」
「えっ、ちょ、ずるい!…じゃなくてっ」
「待ったはなしだよー」
「待った!!」

わたしの声を聞かないふりをして、臨也くんは駒を進める。黒のポーンが一マス移動を果たし、わたしの領域へと侵入を図る。手加減はきっとしてくれているんだろうと思うのだが、それでも勝てたことは一度もない。チェス盤の横に置かれたケーキに手をかけながら、観察するようにじろじろとわたしを見て、にやにやと笑みを浮かべる臨也くんにはやっぱり少し腹が立つ。っていうか、それが今プロポーズした人のする表情なんですか。

「で?返事は?俺、イエスかはいしか受け付けないからね」
「わたしの意見は?」
「だってどうせ断らないだろ」
「そ、そんなことない、もん…」

事態が急すぎてついていけない。人間を愛していると、口癖のように吐き散らす彼の姿を思い出す。臨也くんは、人間を愛していて、わたしのことも愛してくれていて、だから特定の誰かと結婚だなんて想像したこともなかった。それが例え、わたしでも。今言ったことは、わたしの反応を楽しむための嘘でした、と言われた方が納得するかもしれない。わたしが悩みながらも、くらくらする頭を持ち直して駒を置くと、同時にちゃらんと皿とフォークがぶつかり合う音がした。そちらを見ると、皿の上に乗っていたケーキは見事に姿を消していて、そういえばチェスに夢中になりすぎて自分は全然食べていなかったということに気付き、色んなものから逃げるようにケーキの皿をこちらへと引き寄せた。

「わたし、臨也くんは結婚とか興味ないと思ってたなあ」
「俺だって人並みに好きな子と一緒にいたいとか考えるんだけどね」
「うわあ、…嘘っぽい…」
「…まあ自分でもそう思うよ」

好きな人に言われれば普通ならきゅんとくるかもしれない台詞も、臨也くんが言えば嘘っぽくて薄っぺらいものにしかならない。人間を愛している、けれど個人を愛してるわけじゃない臨也くん。彼はわたしの不安を知りながらも、決して慰めたり不安を拭い去ったりしてくれない。ケーキをフォークでつつき、口の中へと潜らせると、甘味が口いっぱいに広がった。お気に入りのケーキ屋さんのケーキは、いつもならそれだけで幸せな気分になれるのに、今はさっぱり、気持ちを誤魔化すことだってできない。そんなわたしをみながら、臨也くんはあっさりと大して悩みもせずに駒を進め、わたしの白のクイーンを奪い取る。最初からその位置に置くことを決めていたように。わたしが、何処に何を置くのか見透かしているかのように。ああもう、むかつくっ。

「臨也くん」
「んー」
「わたし、人間だよ」
「なんだ、今更。人間じゃなきゃ好きにはならないよ」
「知ってる。だから、わたし、臨也くんのこと、好きだけど信用できない」

人間が好きだと、愛していると、いつもわたしの恋人は告げる。だからわたしのことも愛してくれているのだと、言ってくれて。どうしてだろう、愛されているはずなのに、わたしはそれがちっとも嬉しくないんだ。臨也くんはそれを知ってて何度も何度も口に出す。ああもうそういうところ嫌い。だけど、好き。感情はぐるぐるとループする。だからね、臨也くん、

「本当に、結婚相手は、わたしでいいの?」
「……」

街へ出てしまえば一気に埋もれてしまうぐらい平凡で、人並みに恋をして、人並みに悩んで、人並みに嫉妬するだけの、ちっぽけで、臨也くんから見たらつまらない人間なだけのわたしで、いいの?人間を愛しているからわたしのことも、なんてついでのような立場じゃなくて、わたしのことを、あいしてくれる?

フォークを噛んで、既に胃の中に消えたケーキの代わりに、今までため込んでいた言葉たちが舌の上から転がり続ける。ごろごろとひとしきり口の中で暴れた後は、こぼれていくだけだ。とん、と音を立てて、指先から白のキング落ちる。マス目の上でぐらぐらと揺れて、ぱたんと倒れたキングを眺めていると、目の前から溜息と「ばかだなあ」と言う言葉が吐き出された。

「俺さあ、今日誕生日なんだよね」
「……知ってる…けど…?」
「ケーキも美味しかったけど。プレゼントなら、別のものがほしい」
「臨也くん、ちょっとまって、意味わかんない」
「だから、プレゼントに、をちょうだい」

臨也くんの声が、いつもよりも真っ直ぐで、その分だけわたしに重みがのしかかる。言ってることはベタな少女漫画で、今も何処かの誰かが同じことを言ってそうで、とても安易で、臨也くんは絶対に使いそうにない言葉、使いそうになかった言葉は、臨也くんの口からしっかりとわたしの耳まで飛んでくる。

がほしい。……が、いいんだよ」
「……臨也君が言うと、うそっぽいね」
「…言われると思った」
「でも、嬉しいんだよね、なんかおかしいや」

臨也くんが言うと嘘っぽくて薄っぺらい言葉だけれど、それでも結局好きな人に言われてきゅんとしてしまうわたしは至極単純な構造で出来あがってる人間だ。―――それでもいいか。嘘でも。最低限人間として愛されているなら。不満にも不安にもなるけれど、許してしまえるぐらいは愛してしまっているから、妥協も有りということにもしてしまおう。言いたいことを言えて、すっきりしてしまったのかもしれない。落ちたキングを拾い、吹っ切れたように勢いよく盤に置いた。

「臨也くんがチェスで勝ったらいいよ、あげる」

わたしとチェス盤を見比べた臨也くんはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、ばかだなあ、と先ほどと同じ言葉を繰り返す。「ま、逃がす気なんて最初からないけど」そうして、言葉通り離さないとでも言うように、わたしの手を取ると指を絡めてくる。わたしは逃げも隠れもしないのに。だって、既に黒のキングは盤上に振り下ろされていて、つまりそれは、わたしの敗北、でしょう?


(あのね、臨也くん)(んー)(誕生日、おめでと)
(2011/06/08)(Happy Birthday!!)