手の上なら尊敬のキス 額の上なら友情のキス 頬の上なら厚情のキス 唇の上なら愛情のキス 閉じた眼の上なら憧憬のキス 手のひらの上なら懇願のキス 腕と首なら欲望のキス さてその他は、みな狂気の沙汰 by Franz Grillparzer (11/03/29) いつだって空気を読まず、ヒーローが大好きで笑っている祖国が、その時ばかりは何故か眉をひそめて怒ったような表情を作った。私の答えが不満だったのだろうか。けれど、誰に聞いたって、きっと同じような答えが返ってくるに決まってる。祖国は、私たちの祖国でヒーローなんだから。 「には俺のヒロインになってほしいんだぞ」 「……何度言ったらわかるんですか。私は、祖国のことを、そういう対象で好きになることはありません」 それでも、祖国は、こんな風に捻くれた私を好きだと言い、そして、「だって俺のことが好きなんだろ?」と自信満々に笑うのだ。私は、祖国のことは尊敬していても、そういう風に好きになることはないと何度も言っているのに。何度だって、言ってやるのに。祖国は私の言葉に耳を傾けない。 「そもそも、私たちは国と人ですよ。生きる時間が違いすぎます」 「誰かを好きになるのに、人とか国とか関係ないんだぞ」 「あります!それを無視して恋だの愛だの言ってたら、…絶対に、後悔します」 「は強情だな」 祖国が少し悲しげに微笑む。いつも豪快に笑う祖国だから、時々するそういう仕草には驚いて胸が飛び跳ねる。それと同時に、私の言葉のせいでそんな表情を作っているのかと思うと、先ほど飛び跳ねた胸が今度はずどんと重くなる。「いつも、君は意地っ張りだ。いつまでたっても、名前で呼んでくれないし」祖国は言いながら、私の手をとり、片膝をつき、手の甲に唇を落とした。 「そ、祖国!おやめください!」 「アルフレッド」 彼の唇から紡がれたのは、いつか聞かされた、彼の人としての名前。けれど、その名前を紡ぐことは、私が引いた境界線を越えるということになり、そうなると苦しくなるのは私と、祖国だった。いつまでたっても私はその名前を呼べず、祖国は私から離れず、私たちは見つめあう。祖国にこんなことさせてる姿を誰かに見られたら、私はどんな罵声を浴びせられるのだろうと考えながら。アルフレッドはやがて、諦めたように視線を下に落とし、もう一度唇で同じ場所に触れた。 「君のその気持ちが尊敬だと言うなら、俺のこの気持ちだって、尊敬だ」 「祖国」呪いのように名前を呼び続ける。尊敬という名の気持ちで隠してしまえば、きっと、誰も気付かない。 わんわんと俺の胸の中で泣き散らす彼女を見下ろしながら、「ちゃんは泣き虫だねー」と笑った。彼女は泣きながら、私の何処がいけなかったのかな、何がダメだったのかな、と俺がどんな答えを出しても彼女には納得のできない問題を出してくる。「俺じゃわかんないなぁ」強いていうなら、泣き虫なところ、優柔不断なところ、愛が重いところ、ただの友達の俺にずっと寄りかかっているところ。「もったいないなあ、ちゃんみたいな可愛い子、振っちゃうなんてさ」微塵とも思ってないくせに、軽々しく慰めを口に出す。ちゃんはどんどん、俺のシャツを濡らしていく。その涙ですらも、俺には愛おしい。ただ一つ不満があるなら、俺のための涙じゃないってことだけど。可愛いなあ。俺のために泣いてくれれば、もっともっと嬉しいんだけどな。 「ねえ、俺じゃダメかな」 ずっと泣き散らかしていたちゃんの声がぴたりと止んだ。驚いたように顔を上げて、「え?」と少し間抜けな声を出す。そんな可愛い可愛いちゃんの瞳に残った滴を人差し指に乗せて拭きとり、顎に掌を添えた。少しの動作でも彼女は大げさなくらいに飛び上がって、離れようと体をねじるけれど、俺の腕がそれを許さない。 ねえ、ちゃん。ちゃんは恋愛相談も俺にして、失恋した時も真っ先に俺のところに来るくらい、俺のこと意識してないよね。ただの友達だと思ってるよね。けどさ、俺なら、ちゃんのダメなところも全部愛せると思うんだ。今まで君の話をいっぱい聞いて、慰めて、全部知ってる俺なら、受け入れられると思う。いや、少し違うかな。泣き虫なところ、優柔不断なところ、愛が重いところ、ただの友達であるはずの俺にどうしようもなく寄りかかっているところ、それを含めて全部愛してるから。―――なんて、 「なんてね!嘘だよ。びっくりした?」 言えるわけなかった。俺は誤魔化すようにへらへら笑いながら両腕を離した。だって怯えるちゃんなんて見たくないもん。少し茫然としたような表情をしていた彼女は、「うん、びっくりした。フェリちゃんてば、意地悪」と少し不機嫌そうに拗ねてから、小さく笑った。これでいいよ。うん、これが見たかったから。泣いてる姿も可愛いけど、やっぱり笑ってるのが、一番いい。 「フェリちゃん?」 「元気の出る、おまじないだよ」 ちゃん。俺にとって君は、これからもずっとずっと一人の女の子だけど、君が望むなら友達のままでいてあげる。額に触れた唇に誓って。 「ルート、ハグして」 いつ来ても受け止められるよう両手を広げて、私はルートを見上げた。ルートは一瞬躊躇うように視線を逸らしたけれど、すぐに何時も通り呆れた顔を作って「まったく、甘えたがりだな」と私を軽く抱きしめた。そういうルートは、いつだって私を甘やかしたがりだ。背中にルートの腕が回ったのを感じると、私もすぐさま離さないように強く抱きしめる。私があまりに強く腕を巻きつけるものだから、「それはハグじゃないぞ」とルートは苦笑いをした。 「ルート、キスして」 いつものようにルートは、一瞬戸惑うように、取り乱すように硬直するけれど、すぐに気を取り直して、「はいはい」と呆れた声を出しながら私の頬にキスをした。いつもフェリちゃんにもやっているような、挨拶のキス。誰よりも厳しくもあるけれど、その反面とても優しい、私のルート。彼が私にすることは、全て、私のためのもの。少しだけ離れて見上げると、近い距離にルートの顔がある。自分と少し似た顔立ちが、憐れむように私を見下ろし、それと同時に背中に回された手が離れていくのを感じた。私はまだ、もう少し離れたくなくて、ぎゅっとルートの服を掴んだ。 「ルート、ここにキスして」 唇を人差し指で差しながら私がそう言うと、今度こそルートは顔を歪ませた。今にも泣きだしそうな顔は、彼が小さかった頃を思い出させる。そんな顔をさせてしまうのは、いつも私。ルートは予想通り、拒否をする形で私の肩を押した。ルートが私にすることは、いつだって、全て私のためを思ってのこと。本当は私を傷つけるようなことをしたくはないけれど、それを実行に移すのは正しくないことだから、私のためにはならないことだから、ルートは私を拒む。ルートがそれでも私のことを好きでいてくれるから、私はそれに甘えて、また一つ、ルートを悲しませて、自分も傷ついてしまうのだ。そんなこと、とうの昔にわかっているから、結局私の自業自得なのよ。 「それは出来ない。…姉さん」 私の歪んだ愛情を否定はしないけれど決して肯定もしない、愛しの弟。家族としての愛なんていらないわ。いつかこの唇に触れてくれることを願いながら、私はまた今日も、頬へ落ちるキスを受け入れる。 触れていた唇がそっと離れる。いつもだ。丁度その気になってきたところでやめてしまう。私に物足りない思いをさせて、焦らして、求めさせて、楽しんでる。それがわざとなのはわかりきっているのに、私はいつもアーサーの策略にはまってばかりだ。 「悪い。時間だ」 「…そう。今度はいつ、逢えるの?」 最近、仕事ばかりで全然逢えないじゃない。愚痴るように拗ねてやると、アーサーは少し焦ったように「ごめんな、。もう少ししたら落ち着くと思うんだ」と私を慰め、額に軽く音を立ててキスをする。甘えた声でアーサーを呼べば、彼は私の要望に答えてもう一度唇に触れる。啄ばんだり吸ったりする甘いキスだけれど、やっぱりアーサーはこれからってところでそれをやめてしまう。私が潤んだ目で見上げても、「そんな顔で見んなよ」と不器用に笑って、頬や額に触れるだけで、もう唇には触れてくれない。 「じゃあ、そろそろ行くな」 密着していた体を離すと、ふわりと香水の匂いが私の鼻をくすぐった。アーサーは、いつも違う香りをまとっていて私はいつまでたっても慣れることはない。抱きしめられている間だって、慣れない匂いで鼻を覆われて、吐きそうなくらい気持ち悪かったわ。だけど、アーサーが私を抱きしめていると思うと、それすらも我慢できるの。本当は、アーサー自身の香りが一番好きだけど、そんなことは口には出せない。だって、アーサーも、自分の体に香水がついているなんて気付いてないでしょうから。 「行ってらっしゃい」 次逢う時は一体どんな香りなのかしら。どんな香水をまとっていても抱きしめてあげる。背中に残ったひっかき傷にも知らないふりをしてあげる。貴方の策略にわざとはまってあげる。そしてまたひとつ、キスをしましょう。誰かに触れたその唇で、私を愛して。 アーサー、貴方を愛してるわ。例え、私に向けるものが偽物の愛情だったとしても。 わたしたちを包む空気はとても冷たいものなのに、彼と密着する部分だけは激しい熱を持っていて、とても暖かかった。「君の家は一年中暖かいんだよね。いいなあ」わたしへの羨みの言葉を呟くけれど、太陽の光が肌を焼く痛みよりも、この人のぬくもりのほうがずっと好きだった。優しく包み込んでくれる腕とか、とくんとくんと伝わる心臓の音とか、穏やかな笑みとか。体は大きいのに、酷く脆いところとか。 「わたしは、イヴァンさんが羨ましいです」 雪のように白い肌、大きな体。わたしのうちでは氷の結晶なんて降らない。あるのは目に見えない紫外線と、ゆらゆら揺れる幻の湖ばかり。イヴァンさんが持ってるものは、どれもこれも、わたしの持っていないものばかり。わたしの家が住みづらいのと同じように、イヴァンさんの家だってすごく住みづらいのは知っているけれど、それでも憧れずにはいられない。雪の結晶に囲まれた彼という国を。 ないものねだりだとわかっている。わたしはただ、自分が持っていないものを持っている彼に、憧れているだけだって。憧れるから、ひかれているだけであって、それが恋なのかはわからない。なのに、彼から離れることが出来ない。 「ふふ、じゃあ僕たち、おそろいだね」 「そうですね。ひとつになれたら、きっと丁度いいのに」 優しい腕と言葉に抱かれて、わたしは熱に浮かされながら呟いた。そうは言ったけれど、きっとひとつになる前に、この人の持つ暖かい体温がわたしを溶かしてしまうわ。わたしだけが溶けてしまう。うん、それでもいいや。溶けて、水になって、蒸発して、彼の家に降る氷の結晶になって、また溶けてしまえばいい。そうすれば彼の一部として、一生彼と共にいられる。背中に回した腕に少しだけ力を込めると、イヴァンさんが静かにわたしの名前を呼んだ。 「僕は、嫌だなあ」 「どうしてですか?」 「ひとつになったら、抱きしめられないじゃない」 イヴァンさんはわたしの顔を覗き込み、柔らかく笑った。わたしはそれに憧れを覚えつつ、新たな熱に浮かされる。わたしはそれでも、この人と溶けあいたい。憧れと願望と、愛情らしきものを取り入れながら、イヴァンさんの肩に手を置いて思い切り背伸びして、軽いリップノイズと共に瞼に触れた。 どうかどうか、わたしをどろどろに溶かして、貴方の一部にして。 「もう戦わないで」 貴方の手は人を傷つけるためにあるんじゃないの。私がそう彼に伝えると、彼は優しげだけど何処か苦しそうな、笑顔を私に見せた。本当はわかっている。私がどれだけ訴えたところで、どうすることもできないことくらい。だけど、何処かで何もかもあきらめている彼を見ているとどうしてもやるせなくて、辛くて、私は何度も願ってしまう。 無理だよ。消え入りそうな声が聞こえた。 「どうしてですか」 「も、わかってるだろ?」 「わかりません」 「……、」 「貴方の手は、美味しい料理を生み出したり、誰かに花束を差し出したり、誰かを愛するための手で。人を喜ばせるものであって、殺すために使ってはいけないんです」 「それは買いかぶりすぎだろ。俺だって、今まで誰かを憎んだことも殺したことだって、あるさ」 「それでも!」 貴方は私に、美味しい手料理をくれた。デートのたびに恥ずかしくなる台詞と一緒に花束をくれた。頭を撫でたり手を繋いだり抱きしめてくれたりして、私を愛してくれた。 声が枯れるくらい、それを願ってもフランシスさんは叶えてはくれない。ただ苦々しく笑って、「ごめんね」といつもは愛を生み出す唇から否定の言葉を紡いだ。綺麗なものばかり見ていられないんだよ。誰よりも美しいものが好きな彼が、そう呟くのを聞きたくはなかった。フランシスさんは泣きそうな笑みを私に見せつけて、汚れを知らなそうな綺麗な手で私の涙を拭き取る。ほら、やっぱり。この手は誰かを愛するためにあるのよ。私はその手のひらをとり、願いの代わりにそっと口づけた。 (君を守るためならいくらでもこの手を汚そう) 「いいですか、。外は怖いところなのです。私や貴方を傷つけるものばかりで、恐ろしいものばかりです。ですから、この部屋で、ずっとずっと二人で暮らしましょう。外なんて忘れてしまいましょう」 兄さまは静かな声で、その細い腕を私に絡めながら言った。あまりにも細すぎる腕は、私が抵抗を見せればすぐに折れてしまいそうで、怖くて、私は肩口で無抵抗に頷いた。兄さまは薄い胸板も、震えている肩も、体全てが弱弱しく、私が彼を守らなくちゃいけない、という使命感で覆われる。兄さまは他の国や上司からの圧力に、今も押しつぶされそうになって、もがいている。 「兄さま。安心して。私は何処にも行きません」 そんな兄さまが頼るのも、兄さまを守るのも、私だけでいい。他の誰にも、髪の毛一本すらも見せてやりたくない。誰かに裏切られても、親しい人間が何人死んでも、私だけは裏切らないし、兄さまを残して死んだりはしない。その代わり、兄さまも私を裏切らないし、私を残して死んだりはしないのだ。私は兄さまと共同体なのだから。 「死ぬ時は一緒です」 「……はい」 抱きしめた腕に力を込めて、すぐ目の前にある首筋に吸いつく。淫らな赤い所有印が兄さまの雪のように白い首筋に浮かんで、あまりの官能さに欲情する。兄さま、もっともっと。私に、証明して。貴方は私のものだと。私は貴方のものだと。他の誰にもこんな姿は、見せないから。 「、愛してますよ」 低い声が耳元で響いて、「わたしも」と舌足らずに答えた。兄さまの震える腕が、体が、ぎゅっと縮こまる。それがまた、愛しく、わたしは目を瞑った。愛しい愛しい、兄さま。二人で暮らしましょう。外の世界なんて忘れてしまうくらい、長く。 「兄さま。ずっと、ずっといっしょ」 いつかこの部屋から出ていく日が来ても、菊はずっと私だけのもの。 大きな傷がついた大きな背中を人差し指でなぞると、耀さまは小さく身震いして、顔だけをこちらに向け「くすぐってえある」と笑った。彼の背中には、大きく目立つその傷の他にも、小さく切り傷の痕が残っている。普段は服に隠れて見えないそれを慈しむように一つずつ触れていく。この傷の一つ一つが、この人が四千年という私の知らない時間を生きた証で、歴史の断片を節々と伝えるようでもあった。 「もう、一体何あるか」 耀さまの言葉も聞かずに、私はそれをなぞり続ける。もう完治している傷とはいえ、その傷跡が消えることはなく、しっかりと刻みつけられていた。ひときわ大きな傷は、誰がつけたものか、私は知らない。聞こうとすると、いつも耀さまが哀しい顔をするからだ。耀さまにこんな顔をさせる知らない誰かが、羨ましくもあり憎たらしくもあった。この人はこの傷のことを思い出すたびに、この傷をつけた誰かを思い出すのだろう。きっと、私がこうして触れている今も。こんな風に、深く耀さまの心の奥を占領していることがずるいと思った。 「?」 「耀さま」 不思議そうに私を呼ぶ耀さまに、私は彼の名前だけを呟いて応じた。いつか、こんな風に名前を呼び合うこともなくなってしまう。私が死んだあとも、この人はずっと先まで、私の知らない時間を過ごしていくのだろう、この傷と共に。だったらいっそ、この傷をこの指で抉ってしまおうか。そうしたら、この傷のことを思うたび、私を思い出してくれるだろうか。私という人間が生きたことを、この人を愛したことを、覚えていてくれるだろうか。指先から伝わる体温を愛おしく思い、私は耀さまの背中に頭を預けた。暖かく柔らかい温度が今も私の胸を、痛く甘く、焦がし続ける。 「耀さま。私が死んでも、どうか、私のことを忘れないでください」 彼にとっての残酷を呟いて、私はそっと背中の傷口に唇を寄せた。 |