初めに線を書いたのは、私のほうでした。日本国として生まれてから、ずっと一緒だった兄さま。けれどいつのころからか、彼は私にとっては兄ではなく、一人の男性になっていました。私が兄さまを奇異な目で見ていることに、兄さまは気付かないはずもなく、そしてその逆もしかりでした。誰よりも兄さまを見ている私が、兄さまが私を妹として見ていないことに気付かないはずがありません。だけど、禁忌へと踏み出す勇気は、私も兄さまも持ち合わせてはいなかったのです。

(好きです、兄さま。)

臆病者の私たちは、そのように軽い言葉で、冗談のように告げることしかできませんでした。そうやって私は、私と兄さまの間に線を引いたのです。兄と妹、その距離を示すように。私の戯言に、兄さまは一瞬驚いたように顔を強張らせたけれど、すぐに目を伏せ、得意の作り笑顔を張り付けて言うのです。

(ええ、私もです。)

それは私への返事でもあり、私への拒絶でした。私が私の気持ちに区切りをつけたように、兄さまも兄さまなりに線を書いたのです。ただの逃避であったかもしれません。正解の選択ではなかったかもしれません。自分の気持ちに正直になりたいと思ったことは何度もあったけれど、私は、―――私たちは、それよりも世間体をとったのです。私は兄を慕い、兄さまは私を可愛がる。そんな仲の良い兄妹を演じ続けることで幸せになれると信じたのです。そうしながら私たちは、百年、二百年と周りを、自分たちを騙し、ずっと線を書き続けているのです。




「行ってしまうのですね」

兄さまは少しだけ眼を細めて、私にその言葉を投げかけました。口元にまっしろなマスクを当てて、げほげほと咳を織り交ぜている姿は、国の状態があまりよくないことを示しています。トントン、と靴を鳴らして、私は振り返ります。兄さまは私に、心を悟らせないようにできるだけ無表情に努めていて、私も同じように毅然とした態度で向き合おうとしました。兄さまの凛とした黒い瞳に、私は高鳴らせてはいけない胸を高鳴らせてしまいます。ああ、ダメだ。もう何百年も前に区切りをつけた気持ちが甦ってしまう。私は頭を振って、自分の気持ちを押しこみました。

「寂しいものですね。ずっと一緒にいた妹が、嫁に行くというのは」
「あら、妹の嫁入りに一番喜んでくださったのは兄さまのほうじゃありませんか」
「そうでしたか?」
「そうですとも」

兄さまの私の気持ちを否定する言葉を流しながら、私も兄さまの気持ちを打ち砕く言葉を吐き出します。周りに誰もいなくとも、私たちはそれを気にし続けて、一線を引くのです。何百年と続いたそれは、もう立派な癖のようなものでした。

「お嫁へ行っても、兄のことは忘れないでくださいね」
「勿論です。兄さまの役に立てるよう、向こうへ行くのですから」

これで少しは風邪がよくなればいいのですが。私が苦笑しながらそう言うと、兄さまも釣られるように何時も通りの作り笑いを描きました。それから兄さまと同じ黒髪をなびかせて、私は踵を返し、玄関口に手をかけました。これで最後です。私たちの間に書かれた線はもう広がって広がって、取り返しのつかないほどのものとなってしまいました。近いけれど、遠い距離には耐えきれません。いっそ踏み越えてしまおうかと何度も、何度も思ったけれど、勇気のない私にはそんなこともできません。また、それは兄さまにも同じことでした。

「さよならです、兄さま」

私たちが離れたところで、結局やることは変わりません。今度は、私と旦那様の間に線を書くのです。旦那様は私の体に触れることはできても、私の心にまで到達することはできません。触れる直前でさらりとかわしてさしあげましょう。体にこそ触れられなかったけれど、私の心を浸食して離さないのは、兄さまだけなのですから。兄さまは私がそうするとわかっていて、それに気付かないふりを続けるのです。

「愛してます。どうかお元気で」



兄さまの声も聞かずに、わたしはそっと玄関の外へと歩き出しました。昨日から降り続けている雪が、まるで私の心のように景色を白く覆います。ざく、ざく、とひとつひとつ踏み出していくと、足跡の穴が空き始めました。しんしんと降り続ける雪空を見上げてみても、それらは私の涙を溶かしてはくれません。冷たく、私の涙に溶けていくのです。

「ええ、私もです」




線を書く
(誰かが消してくれるのを願って、今でも書き続けています)(なきながら)


[2011/01/07][music by 倉橋ヨエコ]