ぽつぽつとわたしの目の前を通り過ぎていく水を見て、はぁと大きく溜息を吐いた。いつも鞄に入っているはずの折り畳み傘は残念ながら入っていない。昨日の帰りも雨が降って、今日の朝は晴れていたから干してきてしまったのだ。…天気のお姉さんの話、ちゃんと聞いておけばよかったな。当てにならないけど、今日に関しては当たってた。さて、これからどうしようか。雨はやみそうにない。どうせ家に帰るだけなんだし、…いっそ濡れて帰ろうかな。そう思って足を一歩踏み出そうとした瞬間、「マスター!」とわたしを呼ぶ声とあの間抜けな笑顔が浮かんだ。それは頭の中に浮かんだとおり、そのまんまわたしの元へと走ってくる。わたしのピンク色の傘をさして。…なぜピンクなんだ、他にも色々あっただろうに。


「マスター!」
「…ピンク似合わない。激しく似合わない。もっと別なの選びなさいよ」
「…第一声がそれってひどいです」


他にも人がいなかったので、このカイトが指す「マスター」はわたしのことだろうと思いながら答えると、案の定うちのバカイトだった。気の抜けるような笑顔を撒き散らして、わたしが暴言を吐くとしゅんと怒られた子供みたいな顔をする。…でも根は見た目通り優しいやつなのでわたしがどんなに酷くあしらっても、ひよこみたいにひょこひょこついてきて、また変な笑顔をわたしに見せるのだ。わたしの周りにはいなかったタイプなので、ちょっと新鮮だ。だから案外、カイトとの暮らしは心地が良かったりする。カイトは相変わらずのへなちょこ笑顔を見せながら、「じゃあ帰りましょう!」と言っている。…ん?なんか可笑しくないか?


「ちょっと待った」
「…どうしたんですか、マスター?」
「なんで傘、一本なの」
「俺がマスターと相合傘したいからです!」


堂々と変なことを言ってのけるカイトに、一発制裁を加えてやりたい。が、せっかく迎えに来てもらったのに流石に殴るのはなあ、と思って思い留まる。代わりに、右手に拳を作ったまま「あほか」と言ってやった。カイトはいつだって、変なところで気が回らないっていうか、アホっていうか…アホなのは最初からだけど。友達の家のカイトはきりりってしててかっこよくて頼りがいがあって…なんというか、「いい男オーラ」が出てたのに、うちのカイトの間抜け振りはなんだ、同じカイトなのにこうも違うのか。うちのカイトは眉を八の字に下げていてむしろ「負け犬オーラ」を感じさせるような顔で(いや、ひよこオーラ?アホの子オーラ?)、「えええ、マスター、俺と相合傘嫌ですか!?」と聞いてくるじゃないか。…そういうことじゃない、バカイト。相合傘は嫌じゃないけど、なんていうかさ。普通迎えに来るんだったら二本持ってくるよね、って話なんですよ、カイトさん。


「…嫌ですか?」


何にも答えないわたしに、嫌だったと思ったカイトがもう一度暗めの声音で聞いた。…落ち込んでる。顔をあげるとカイトは今にも泣き出しそうな顔をしていて…まるで捨てられて段ボールに詰められた子犬みたいな顔をしている。相手に同情を買わせるような卑怯な顔だ。一瞬声が詰まってしまった。なんとなくその眼を見てられなくて、たんだん気恥ずかしくなってきたわたしはカイトの手から無理矢理傘を奪い取る。呆然としているカイトを余所にわたしは歩き始めて、それでも動く気配のないカイトの方を振り返って、名前を呼んだ。


「帰るんでしょっ!早く入りなさいよ」
「……嫌じゃないんですか?」
「嫌なんて、一言も言ってないんだけど?」


そう言うとカイトの顔はパァァと効果音がつくくらいの勢いで明るくなり、マスター!とわたしのほうに寄ってくる。カイトが傘の中に入ってきて、わたしはカイトの背に合わせて傘を上にあげるとその手の上からもう一つ大きな手が重なる。「マスター、大変ですから俺が持ちます」そう言ったカイトの顔は珍しくきりっとしていて、友達の家で見たあのいい男オーラを出したカイトと負けず劣らずかっこい……。いや、ない。絶対ない。い、今のはあれだ、目の錯覚だ。そうだ、雨が降って視界が見えにくいからそう見えちゃっただけだ。頭の中で考えていたことがとてつもなく恥ずかしくて、思わず首を振るとカイトがいつもどおり間抜け面をかまして「どうしたんですか?」と首を傾げる。なんでもないっ、と言って、「さっさと歩け、バカイト」と結局右手の拳を使ってしまった。わたしの顔に熱が溜まっていくのをカイトに知られたくはなくて。






スロウダンス




[2009/06/07]