マスターはわたしの隣でずっと本を読んでいる。わたしはというと特にやることもないのでマスターの傍に寄り添って座り、ぼうっと天井を見上げた。マスターのふわふわした甘い香りが漂ってきて、酔いそうになる。不思議な感じ。傍にいることそのものが、やすらぎ。嬉しくて悲しくて切なくて満たされて足りなくて、いろんな感情をわたしの中に溢れさせるマスターは、ふしぎ。マスターはわたしを邪険に扱うこともなく、かといって特に気にかけるわけでもなく本を読み耽っている。わたしはそれでもいい、傍にいられれば、……よく、ない。 「へんなの、」 「…何が?」 「…変なんです。わたし、いつのまにか、欲張りになってて」 マスターは首をかしげて、本を開いたままこちらを見ている。うん、変なんだ、最近のわたしは。前までは傍にいられればいいって思っていたのに、気付いたらそれだけじゃすまなくなっていて。「ちゅーしたいです」と言ってからマスターの返事も待たずに唇に触れる。離したらマスターは微笑みながら「満足?」と聞いた。「…いいえ」満足、なんかじゃない。こんなものじゃ足りない。…やっぱり、わたし、どっか壊れちゃったのかな。だって可笑しい、マスターにこんな感情抱くなんて。わたしはちゃんと知ってる、この感情の持つ名前を、意味を。だからこそ、余計に可笑しいと感じる。壊れてたとしたらきっと前からだ、ずっと前からマスターのことは大好きだもの。でもね、今わたしが持ってる感情は単純な恋愛感情じゃないんだよ。たぶん、欲情っていうのかな、これは。どんどんどんどんわたしの中でエラーが発生してるの。 「…マスター、好きです」 「ん、私もミクが好きよ」 「……離れたくないです。ずっと一緒にいたいです」 「どうしたの?…私は離れてなんかいかないよ」 「そんなことないです」 だって、マスターは人間、だもの。わたしはマスターをずっと好きでいられる自信がある。興味を持たなくなるなんてこと想像できない。けれどマスターたち人間は、いつかの熱情を忘れて冷めてしまうことがある。それが、怖いのだ。飽きられて捨てられるのがこの上なく恐ろしい。マスターは「ないない、有り得ないよ」と言っているけれど、わからないよ?だってマスターはわたしと違う存在なんだもの。私から離れていってしまう。 「ずっと、ずーっと、一緒にいたいです」 「うん」 「……一緒にいたい、です」 「…うん」 たとえばね、結婚とかできたらいいなって思うんだ。ずっと一緒にいられる方法のひとつだと思うの。おんなじ苗字になって、朝起きて一緒にご飯食べて、出かける時は行ってきます、帰ってきたらただいまって言葉をかけて、一緒にお風呂入って一緒のお布団で寝るの。そう言ったらマスターは「苗字以外は、今となんら変わらないじゃない」と苦笑した。そういうんじゃなくて、…なんて言えばいいんだろう。頭の中の言葉がまとまらない。だんだん、そんな自分に腹が立ってきて少しずつ目の前が滲んでいく。情けない、幼すぎる自分の機能が。こんなことで泣いて、マスターを困らせたいとは思わないのに。マスターは本にしおりを挟んで閉じ、隣にいるわたしの手を引いた。「よしよし」と言いながら肩を抱き、頭を撫でる。マスターの柔らかい体の感触が、羨ましかった。自分も同じだけの柔らかみを持っているけれど違うんだ。 どんなに夢見たってわたしたちは結婚なんて出来るわけがない。どうしてだろう、…わたしたちが同性だから?それとも、わたしがボーカロイドだから?「どっちもね」わたしのつぶやきに、マスターはため息交じりにそう言った。でも、マスター。同性は外国では結婚出来るんだよ。だとしたらやっぱり一番の原因はわたしにあるんだ。また泣きたくなった。 「じゃあ、いっそ、心中しちゃう?」 マスターが軽々しく言ったその言葉に一瞬フリーズする。心中しんじゅうシンジュウ。頭の中で何度かリピートして、意味を見つけ出す。一緒に死ぬこと。一緒に壊れること。一緒に天国へ行くこと。ずっと一緒にいられること。なんて素敵な響きなんだろう、結婚なんかよりもずっと確実。誰にも邪魔されることはなく、誰かにマスターを取られる心配もなく、嫉妬することも捨てられることもアンインストールされることもない。もしかしたら生まれ変わるかもしれないし、…生まれ変われるなら今度は同じ人間同士がいいな。胸の中に広がる爽快感がわたしを満たし始めて、わたしは自然と微笑みながら「いいですね」と言った。するとマスターは嬉しそうに笑う。 「するんだったら海か森がいいかな。あー…でも家の中でもいいよね」 「わたしはマスターと一緒ならどこでもいいですよ。一緒なら、なんでも」 「…そーね」 マスターは手に持っている本を再び開いて、文字に視線を落とす。中身を覗き込むとページの上の方に文字が並べられている。…読めない。わたしは漢字が読めないのだ。わたしが眉を潜めるとマスターがそこに指を添えて、すっと動かしながら読み上げてくれた。優しい声音がそれに似合わない物騒な単語だ。心中、なんて言葉が思いついたのはこの本のおかげだろう。マスターの声は耳に心地よく響き、わたしはそれを受け流さないようしっかり留めておく。頭の中にしまっておいて、何度もリピートするんだ、マスターの声で。何でも記憶しておこう、何度でも繰り返せるよう、わたしの中に刻みつけるように。マスターの小さな肩によっかかって、わたしは眼をつむり吐息を感じた。 空 だ 想 らけ の ラ ブ ンコ [2008/12/17] |