ヤテンの顔はあたしよりもずっと高いところにあって、あたしは首をめいっぱい上にあげないとヤテンの顔が見れない。それでも、ヤテンの顔をあたしは見ていたくて、あたしを見てほしくて、あたしは名前を呼んだ。「ヤテン」あたしはヤテンたちの言う言語がわかるけれど、ヤテンたちはあたしたちの使う言葉が分からない。あたしがどんなに声を発しても、外人みたいにあたしの言葉はヤテンたちには意味の分からない呪文にしか聞こえないのだ。だけど、それがヤテンを呼んだことに気づいてくれたヤテンは、足元のあたしを見下ろして笑いかけてくれた。ヤテンは手をあたしの脇の間に入れて抱きあげて、そのままソファーへと向かい座る。




「お、チビまた来てたのか」




ソファーの後ろから身を乗り出して話しかけてきたのはセイヤ。あたしは、実は、セイヤがあまり好きではない。だって、あたしにはちゃんと『』っていう名前があるのに、それを無視して「チビ」なんて愛称つけるんだもん。…まぁ、あたしの名前を知らないからしょうがないってところはあるけど、それにしたってもうちょっと他の呼び名があると思うの。あたしが怒ってそう言うと、やっぱり通じてなくて、「チビのやつ、何怒ってんだ?」と感情しか伝わらなかったようだ。ヤテンはあたしの言葉なんか通じてなくても、あたしの意志を組みとってくれたみたいで、「変な呼び方するからだよねー」とあたしの喉を撫でる。ヤテンの指は滑らかで、撫でられていると気持ちいいから好きだ。




「ねー、大気ぃ。この子うちで飼っちゃだめ?」
「駄目です。首輪が付いているでしょう。ちゃんと飼い主がいるんですから」
「でも此処んとこずーっとこっちに来てるし」




タイキはそう言いながらもあたしのご飯を用意してくれて、あたしは嬉しくなってヤテンの膝から飛び降りる。あたしのご主人は、最初はあたしを可愛がってくれたけど、そのうち飼うことに飽きてきちゃったみたいで今は全然構ってくれない。別に構ってもらえないならもらえないでいいけど、あたしの存在を忘れることが多くて、ご飯を用意してくれないのは困る。あたしはもうあれがご主人だとは思っていない。ただ、この首輪は煩わしくあたしをあの家に縛り付けてるから、構ってくれないならいっそ捨ててほしいとすらも思っているのだ。ヤテンは「餌に負けた」とかなんとか言って、不貞腐れている。しょうがないよ、最近またご主人があたしの分のご飯を忘れててほとんど食べてないんだもの。そんなヤテンが可愛くて仕方がない。テレビに映るヤテンはもっと凛々しい顔をしているんだけどな。この顔はヤテンがこの二人にだけ見せていたものなのだろう。それを、あたしの前で見せてくれるのはヤテンの領域に入ることを許されたみたいで嬉しい。


ミルクを飲んでいると、ふと視界に何か白いものが入る。顔を机の下の方に向けると、そこには無残なラブレターたち。ハートのシールが貼られていて、「星野光さま」「大気さんへ」「夜天くん」「スリーライツ様」封筒には様々な文字が書いてあった。あいにく、あたしは読めなかったけど、封を切っていないそれらは読むことすらされてない手紙ということはあたしにだってよくわかる。あたしのご飯を食べる口が止まっていることに気づいたヤテンは、立ち上がってあたしの方に近付いた。あたしの周りを大きな影が覆って、「どうしたの?」と聞きこんでくる。「あのね、あのラブレター、読まないの?」あたしはそう聞いたつもりだったのに、ヤテンはさっきの以心伝心が嘘かのように全く意味を理解してくれなくて、「もしかして美味しくなかった?」と聞いてくる。「違うよ、タイキのご飯はいつも美味しいの!あたしタイキのご飯大好き!」あたしがそう言ったのをやっぱり聞きとってくれなくて、「まさか賞味期限切れとか出してないでしょうね」とタイキに聞いていた。もちろん、タイキに限ってそんなことはなく、否定していたのだけれど。結局、あたしは何一つ伝えられないまま、ご飯は食べてその場を終えることになってしまった。その後、タイキはラジオ番組に出演、セイヤは明日、アメフト部の朝練に出るからと言って部屋に戻ってしまった。


意志疎通が出来ないことはもどかしい。ヤテンはたまに、あたしの思考を呼んでいるかのように代弁してくれることがあるけれど、それが偶然だということをあたしは知ってる。あたしたちの使う言語と、ヤテンたちの使う言語は違う。だから、あたしはヤテンたちの言葉を理解できるけれど、ヤテンたちはあたしたちの言葉を聞きとれない。この食い違った会話を、いったい何回やったのだろう。言語っていうのは不便だ、使うものが違うってだけで自分の名前すらも教えることが出来ないのだから。




「今日は泊まっていく?」




再びあたしを抱きあげて膝の上に乗せたヤテンはあたしの答えを期待して言った。あたしは肯定の言葉を述べる代わりに、ヤテンの体に寄り添った。こうやって、行動で通じることもあるけれど、やっぱり共通の言語が欲しい。行動で示せる範囲はすごく、狭いから。本当は、あのラブレターたちをあたしが引っ張りだすことも出来たんだ。でも、あたしはヤテンが人間嫌いってこと知ってるから、如何してもその行動に移せなくて。人間になりたいって思うけれど、人間になったらあたしはヤテンに嫌われちゃうんじゃないかって思って、それが怖いのだ。ヤテンが今こうやって抱いてくれるのも、笑顔を見せてくれるのも、全部あたしが人間じゃないからだから。あたしはヤテンの顔を見上げる。相変わらず、綺麗な笑顔をくれて、あたしの背中を優しく撫でる。もし、人間だったらこの優しさを味わうことはないのかな。




「ねぇ、ヤテン」
「…ん、どうしたの?」
「すき」
「眠たい?…部屋に行こっか」




想いを伝えられない猫のあたしと、言葉は通じても嫌われてしまう人間、いったいどっちのほうが彼に近いのだろう。








モ ク の 槽
ノ ロ 水




[2008/08/19]