好きな人がいた。生まれて初めて告白して、いいよって言われたときは嬉しすぎて死ぬかと思った。それから手を繋いで一緒に帰って、休みの日にはデートして、それからキスして。何もかもが幸せで幸せで、何もかもに満ち足りていた。あたしは幸せで幸せで、夢だったら覚めないでほしいし、夢でなければいい、なんてことも考えていたけれど。それは確かに、よくも悪くも現実で、終わりなんてものはあっさりとやってきてしまうのだ。「…ねえ、その人だれ?」あたしの彼氏の隣にはあたしとは似つかないほどの可愛い女の子がいた。「…」目をそらされる。「ねえこの子誰?」女の子があたしと同じ質問を奴にする。そいつは「…なんでもね、ただのクラスメイト」とだけ呟いてその女の子を引っ張って何処かへ連れて行く。ただの、クラスメイト。あたしはクラスメイト?ううん、そんなわけないじゃん。あたしはあいつの彼女。好き、付き合ってっていったらいいよって言われて、手を繋いで一緒に帰ってデートもしてキスもした、幸せでいっぱいのカップル。なのに、なのになのになのに、「別れよう」 あたしの何がいけなかった?ねえもっと彼女らしくするから。髪型も、シャンプーも、苦手な料理だって頑張るから。あたしにダメなところがあるなら、言って。ねえ直すからおねがいおねがい!あたしが何度もそういってもあいつは冷たい目であたしを見つめて「面倒くせーから別れよう。あいつにバレたら俺困るし」あいつって、誰のこと言ってるの?あの時の女の子?もっとちゃんと説明してよ。(説明なんかしなくたって、あたしはもう充分にわかってる!)あいつは言うだけ言ってあたしの言い分なんか聞かずにどっかへ消えていく。…優しい人だった。すごくすごく好きだった。あたしは、彼女だった。(違う、)(きっとあいつにとってはあたしなんかただの浮気相手でしかなかったんだ) 「…う゛う゛う゛ー…まじごめひっく、ざがえぐち…」 「いやいいって」 「でも…ひっく…やっぱりわ゛るいがら泣くのやめひっく」 「思いっきり泣いたほうがすっきりするんじゃない?」 「ざがえぐちぃぃー…おま、ひっく…めっちゃい゛い゛やつううーーーー!」 夢であってほしいだなんて何度も思ったけれど、それは勿論リアルであってフィクションなんかじゃない。あたしは去っていったあいつの後姿の残像を頭に残して教室でひとり残っていた。夢うつつの状態で何処を見るわけでもなくぼうっとしていたら、たまたま忘れ物を取りに来た栄口が入ってきて、その栄口を見たらふと現実に引き戻されてしまい涙がふっと零れだしたのだ。栄口は苦笑しながらポンポンとあたしの頭を優しく叩く。人間の頭ってどんなに優しくても叩かれたら何万個と細胞が減っていくんだって。でも栄口に叩かれるなら別に何万と減っても構わないや。(なんかマゾみたいだな)栄口は優しくていいやつ。ただのクラスメイト相手に部活すっぽかしてまで慰めてくれて傍にいてくれる。栄口みたいな人を好きになればよかった。なんで、なんであたしはあんな酷い男を好きになったのだろう、なんで今でもあいつが好きだなんて思ってしまうんだろう。人間の心って、複雑でぐるぐるしててよくわからない。ひっくひっく、しゃくりが止まらない。涙も止まらない。体の中のありとあらゆる水という成分を全て涙に変えて出し切ったころ、あたしの声はもう枯れて出にくくなってて、それでもまだ泣き足りなくて、八つ当たりをするように栄口に言った。(それでも、栄口はきっと八つ当たりだなんて思ってはくれない) 「あたしにね、最初に可愛いって言ってくれたの」 「…うん」 「優しくて、頭撫でる仕草が好きで」 「…うん」 「好きって気持ち、全部あいつのためだったのに、…馬鹿、馬鹿ばかばかしんじゃえ」 「…うん」 本当に、栄口みたいなやつ好きになればよかった。あたしの愚痴も八つ当たりも怒りも哀しみも全部聞いて受け入れてくれる、栄口みたいな優しくて器の大きいやつを好きになればよかった。如何してあいつを好きになったんだろう、如何して今でも好きなんだろう、なんで流しきったはずの涙を出そう出そうと頑張っているのだろう。付き合う前は優しい人だった。素敵な人だった。でも人間には表と裏、建前と本音というものが存在していて、あたしが好きだったのは建前、表の顔でしかなかったんだ。告白、受け入れないで欲しかった、好きじゃないならはっきり振って欲しかった。あたしを舞い上がらせておいて、天国から地獄に突き落とす、本当に酷いやつ。 栄口はあいつと同じように、あたしの頭を優しく撫でる。あいつと同じ仕草だけれど、やっぱり栄口がやるとちょっと違う感じ。今までとは違う感触に少し違和感を感じるけれど、今はその違和感ですらも安らかに感じる。好きだったね、好きだったよ。大好きだったよ。あの仕草、瞳、笑い方、唇、全部。如何してこんなに傷ついても今でも好きなのかなんてわからない。だけど、それはもう如何しようもない揺ぎ無い真実でしかないのだ。 「俺もさ、好きな人いたんだけど」 「…え」 「でも、好きな人がいるみたいで」 「……うん」 「…世の中嫌になっちゃうなあ、上手くいかなくて」 「…そうだね、上手くいかないね」 誰かが誰かを好きになることは、誰にも予想なんか出来なくて、複雑で単純で割りあわない。如何して好きになったんだろうとか、好きになってくれないのは何でだろうとか、そんな人間の深い心理なんて、心理学者にだって判るわけないし、あたしにだって栄口にだってわからないよ。「はは、俺も、無謀な恋愛したもんだな」無理して笑おうとする栄口を見てなんだか胸が苦しくなった。(今のあたしと、重なって)あたしは優しい栄口のそんな姿を見てはいられなくて、「思いっきり泣いたほうがすっきりするんだよって、すごーくいい人が言ってた」と誰かの言葉を真似していってみた。声は枯れて出にくくて届きにくかったけれども、栄口はニッと笑って、「…じゃあそれに便乗しますか」そしてこっそりあたしのブラウスの袖を掴んだ。あたしも泣いた、涙なんてもう出てくるわけがなかったけど。恋愛って、難しいね。 |
虚像フーガの水没