重たい袋を片手に玄関の扉を開けると、もわっといつもの煙たくほろ苦い香りが鼻の中に入り込んできて、反射的に、あ、パパがいる、と思った。中に入ると案の定パパは一人で煙草を吹かしていたらしく、灰皿の有害物質たちが山となり自己主張をしてくる。まったくもうパパったら。わたしは軽く溜息を吐いて荷物を下ろすと、昼間から酒を飲んで眠ってしまっているらしいパパにそっと毛布をかけてやり、換気のために窓を開けた。外のすがすがしい空気が混じってきて、そのさわやかな風の中にママを感じる。

「煙草の吸いすぎだよ」

 最初にはっきりとパパにそう言ったのは岸谷先生。パパは「そうか?」と首をかしげながら、吸い殻を灰皿につけるとまた一本取り出そうとポケットに手を伸ばした。すると先程のが最後の一本だったらしく、箱の中が空っぽだということに気付くと、パパは苛立ったように舌打ちをした。
 その様子を見ていた岸谷先生は溜息を吐いて空っぽの箱を指さすと、「今日、うちに来たときはまだ封も開けていなかったんだよ。これは一般的に吸いすぎといっていい量だと思うね」と眉に皺を寄せた。おまけに「そもそもうちは禁煙だよ」なんて付け足すものだから、さらに苛立ったパパはそうかよと言いながら手に持っていた灰皿をひん曲げた。

「君、確か煙草はやめたんじゃなかったっけ」
「手前みたいに苛立せるやつが多いからよ。なあ新羅。ところで頭捻じ曲げられるのと引っこ抜かれるのどっちがいい?」
「お願いだから八つ当たりで私の寿命を縮めようとするのはやめてくれないかな!?」



 いくら空気を入れ替えても、部屋の中に染みついてしまった匂いは取れない。以前この家の中であふれかえっていた家族みんなの匂いはすっかりとかき消されて、今やパパがいてもいなくても此処はパパの香りしかしない場所になった。わたしの服にも染みついたそれは、まるでパパが傍にいてくれているようで、とても安心する。それと同時にママの匂いはどんどんと小さくなって、ママが消えていくのを感じた。それなのにパパの中には、この家に煙草の香りが染みついたのと同じぐらいしつこく、ママの存在が深く刻まれたままだ。

「―――?」

 少し寝ぼけた様子の低くかすれた声に名前を呼ばれて、びくりと肩を跳ねさせると、わたしは窓に手をかけたまま振り向く。するとパパが頭をガシガシとかきながら起き上がっていて、「ああもうそんな時間か」と携帯を覗き込んだ。わたしはそんなパパのすぐそばに座って、パパににっこりと笑いかけた。
 パパ、今日はね、ハンバーグだよ。どう頑張ってもママの味付けにはならないし、ママのように作ることはできないけど、頑張って作るね。
 パパはおもむろに煙草を一本取り出し火をつけると、それを咥えてもわっと煙を吐き出した。真新しい煙は部屋の中に吐き出されて、外とわたしの体の中へと放出されていく。結局岸谷先生に注意されても、パパが煙草をやめることも、やめようとさえもすることはなかった。けれど、わたしはそれでいいのだと思う。それがいいのだと。

、」

 なあに、パパ。

「今日、むかつく客がいてよ、またいろいろと壊しちまった」

 うん。なんとなくそうかなって思ってた。だってパパお酒臭いし。でも、昼間からあんまり飲んじゃだめだよ。

「なんでいつも、こうなっちまうんだろうなぁ」

 パパがうつろうつろに天井に視線を向けて、また大きく溜息と煙を吐き出す。パパの香りしかしないそれを、わたしは吸いこんで、パパの手をそっと握りこんだ。パパの手は、ママのそれよりもずっと大きくて、硬くて、それなのに弱々しい。

「ごめんな」

 何に対しての謝罪なのかわからず、わたしは首をかしげた。パパは苦笑しながら、わたしの頭を弱々しい手のひらで撫でて、そのまま引き寄せて抱きしめる。子供のように、泣きつくようにぎゅうぎゅうと痛いぐらいに抱きしめられて、骨がきしきしと音を立てた。けれど、声はあげない。あげたら、パパはきっと離れていってしまうから。わたしはぎゅっと唇を閉じて、パパの匂いを思い切り吸い込んだ。



「君が癌で早死にしようとなんだろうと、僕はセルティと幸せに暮らせればそれでいいんだけどね。ああでもセルティは君が死んだら悲しむだろうなあ。セルティが俺以外のことを考えて、しかも憂いていると思うと君がひどく妬ましいよ」
「何が言いてえんだ、手前は。もっと簡潔に言え」
「いたたたたたちょっやめ、頭ちぎ、ちぎれるって!!! ……はあ、だからね、奥さんが死んで悲しいのはわかるけど、君は、君の自分勝手な振る舞いで、彼女の忘れ形見まで殺す気かい?」

 その時、わたしに突き刺さった心底憐れむような視線を忘れることができない。
 岸谷先生。わたしは、パパの煙で死ねるなら本望だと思っています。それをまとって天国へ行けたら、天国でママはパパのことを忘れることはないでしょう? それにね先生、ママの香りを忘れてしまったわたしは、パパの香りを忘れてしまうことが怖いんです。だから、このままでいいんです。このままが、いいんです。
 わたしは今日もパパを吸収する。たとえそれが有害であっても、わたしの体の中を真っ黒に染め上げても、黄色く壁に染みついてしまったヤニのようにしつこく、枯れてしまった喉が愛していると叫ぶから。