生まれて初めて、標識が空を飛ぶところを目撃した。

 正確には飛んだというより飛ばされた、槍投げのように投げられたと言うべきか。とにもかくにもひゅんと勢いを増して飛んだ標識は、わたしの横を素早く通り過ぎると、ずどんと近くの壁に激突しそのまま埋まったのである。一瞬の出来事だったけれど、わたしには十分な衝撃で、外であるにも関わらず思わず腰を抜かしてわたしは其処にへたり込んでしまった。制服が汚れちゃうとか、そんなことを考えている余裕なんてなかった。頭の中は真っ白で、どうすればいいのか、さっぱりだったのだから。
 けれど、わたし以上に吃驚した顔をしているのは、標識を投げた男の子のほうだ。それから少し経つと、怒りで真っ赤だったらしい彼の顔はみるみる青くなっていく。面白いくらいに。目が合うと彼はわかりやすく逸らしてしまう。
 そんな沈黙を破ったのは「うわああ」という、わたしと彼の間にいた第三者による叫び声だった。いや、本来はわたしの方が第三者のはずだった。彼と、その人が喧嘩しているところをたまたま通りかかった通行人がわたしだ。けれどその人はその叫び声と共に走り去ってしまったので、必然的に残ったのは標識の彼と、彼との喧嘩の末に気絶してしまったらしい、おそらく高校生なる人物と、通行人のわたしとなり、それに苛立ちを含めるように彼は舌打ちをした。
 わたしは腰を抜かしたまま、目が合わない彼のことをじっと見ていた。まだ細い、小さな子どもだった。何処かにひっかけたのか、手の甲にできた傷口から血がどろどろと落ちているのが見える。少し大きめのうちの学校の制服を着ているあたり、もしかしたら後輩なのだろうか。この前までランドセルを背負っていた子どもが、あんな風に標識を投げただなんて信じられない。

「……悪い、」

 と、やがて小さな声がわたしの耳に届いた。ようやく顔をあげた彼は、眉を寄せて酷く嫌悪するような、泣きそうな顔をしている。こちらへ近づく気配もなく、よく見ると足は少し震えている。
 唇をかみしめてから、すくっと潔く立ちあがった。恐怖による震えはもう止まっている。だって、彼はもう何も投げるようには思えなかったから。

「大丈夫だよ」

 言いながら、血の溢れる手に触れると、びくりとそれは跳ねあがった。けれど逃げられる前に捕まえてしまうと、何を怖がっているのか抵抗一つもなくその手のひらはわたしの元へと収まった。それをいいことに、ハンカチで血を覆い隠してきゅっと結ぶ。

「大丈夫、だから」

 彼はぎりっと唇を噛みしめると、わたしの手を振り払い、背を向けるとそのまま逃げるように走って行ってしまった。振り払われた時に叩かれた衝撃で、手の甲がじんじんと痛み腫れていくのがわかる。その痛みにそっと触れるとびりりと電撃が走り、わたしはきゅっと目を閉じた。
 そんな怯えるような目をした子どもの、冷たい手の温度が忘れられない。